文楽とか浄瑠璃とか

文楽のことなど徒然に

カテゴリ: 「文楽の研究」(三宅周太郎著)を読む

続 文楽の研究、上の巻 研究と随筆 四「浪花女と文楽」では
映画「浪花女」の批評とともに、豐澤團平に関して、
その人となり、芸風、出生から三味線の名人となるに至るまでが、
詳しく紹介されています。

この中で筆者は、義太夫のシビアさ、その稽古が続けられる人の偉大さを
下記のように表現しています。

「義太夫というのは酒席の余技などとは全く違う、
 たとえ素人でも、義太夫の稽古をやり続けた人は人物である」

一例として、ある御仁の事を紹介なさっているのですが
非常に興味深かったので、ここに紹介したいと思います。

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出典:「続 文楽の研究」(三宅周太郎著)上の巻 研究と随筆  四「浪花女と文楽」

【下記要約】

道楽者でも、本式に義太夫を15年以上稽古しているなら
その人は道楽者とは言えない。
義太夫というのは洒落や冗談でできる余技ではない。

素人さえ、上手い下手は別として、これを二十年、三十年、
稽古している人は必ず一人物である。

あるところに某という人がいた。
この人は、質の悪い、下手な義太夫しか語れぬ人で、
彼の語る「今頃は半七さん」は「今、 頃は半、 七さん」となる
殺人的なものであった。

そのため、しばしば親戚が集り、親族会議を開いてまで、
彼に義太夫の稽古を止めさせようとした。
しかし、親戚一同からの懇願にも関わらず、
彼はそれを憮然と撥ね退け稽古を続行する。

起床は朝5時、すぐに冷水摩擦をした後、
義太夫の師匠を自宅に招き毎日稽古をした。
そして朝食を摂り会社に行く。

大抵の師匠は閉口頓首するが、お構いなしに
何度でも師匠を替えて稽古を続けた。

そして30年間やり抜いた頃、彼は某出版社の社長となり
巨万の富を得ていた。

このように、超がつくド下手な義太夫語りの某であろうとも
三十年間、親族の反対を押し切って義太夫を続けた不屈不撓の人格は
実業家として立派にものを言い、その業界の代表者となったのである。

*****************

▲要約ここまで

先日、大阪環状線に乗りながらここを読んでしまったんですが
その時、もう、笑いを堪えるのに大変でした(^0^)

想像してしもうたんです。

朝まだ暗いうちから冷水を浴び、しゅっっと褌を締め
洗いたての浴衣に着替えて神妙な顔で義太夫の稽古を始める。
緊張した空間、真剣な眼差し、その第一声が
「今、 頃は半、 七さん」。

ご家族は毎朝この方の義太夫で起きたでしょうし
ご近所にも聞こえていたでしょう。
真面目な御本人と周囲の様子を想像するともう笑いが抑えられず
電車の中で一人クスクス肩をふるわせ、
ヘンなおばはんになっておりました。

ちなみに、この章自体は、ゆるいところのひとつもない
シビアな興味深い内容で、うん、と唸る箇所も多いです。

なんでそんな所に、このような御仁の話を書いたのか
恐らく筆者は笑わせるつもりなど毛頭なく、
例としてこれほど最適なものはない!と大真面目で
紹介したのだと思います。

そんな筆者の姿が、この御仁にちょっと重なってしまい
稽古をなさっている方でも研究者でも
義太夫に関わる方って人物なんやなあと思いながら
その日一日、ふふっと思い出し笑いを繰り返したことでした。

続・文楽の研究 (岩波文庫)
三宅 周太郎
岩波書店
2005-09-16





【出典】
「文楽の研究」(三宅周太郎著)「文楽の研究」(三宅周太郎著)
中の巻・文楽人形物語並びに終戦後の文楽その2-1、人形遣ひさまざま。

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玉造さん第二の喧嘩は2代目豊沢団平さんとのものです。

団平さんは有吉佐和子「一の糸」の清太郎さんのモデルになった
お三味線のお師匠さん。ある時、志渡寺の総稽古で団平さんが
ちょいと気の抜ける事をなさり、それに玉造さんが怒って
「エエ加減にせい」と怒鳴ったのが喧嘩の発端です。

次の興行「義経千本櫻」で玉造さんが権太を遣った時

 -その首桶を持っては入る「是忘れては」-

ここの弾き方を打ち合わせしたいと、団平さんから玉造さんに
申し入れますが、先の一件から団平さんを心良う思うてなかった
玉造さんは

「どうにでも弾いてくれ、自分のほうから乗っていく」

と、答えます。

そして迎えた初日、そんな玉造さんの態度を腹に据えかねた団平さんは
腕に力を入れて引き立てます。玉造さんも言うた手前、外してはならんと
精神込めて遣います。この二人の力比べ(芸のぶつかり合い)に攻められ
長門太夫は玉の汗を流して語り、力を込めて遣った玉造さんの腹帯は
途中でブツっと切れてしまいます。

終演後、玉造さんは

「さすがは団平、俺ほどの気力がなければ腹帯の代わりに腸が捻れたやろ」

と、言うたそうです。

そして団平さんからは

「悪う思うて下さるな」

との伝言があり、それを聞いた玉造さんはわっと声を上げて泣き出し、
子どものように感激して「団平さん」とその名を呼び続けたということです。

****

筆者はこれを「喧嘩」として紹介しています。

確かにそうかもしれんけど、それ以上に凄みのある話しやとウチは思います。
この時の文楽を聴いて、見ていはったお客さんはさぞ疲れはったでしょうが、
一生に一度あるかないかの経験やったんではないでしょうか。

ちょっと羨ましい感じです(*´ω`*)


文楽の研究 (岩波文庫)
三宅 周太郎
岩波書店
2005-08-19




【出典】
「文楽の研究」(三宅周太郎著)「文楽の研究」(三宅周太郎著)
中の巻・文楽人形物語並びに終戦後の文楽その2-1、人形遣ひさまざま。

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初代玉造さんは生涯で2つほど大喧嘩をしていらっしゃいます。
第一が江戸生世話役者の開祖、四代目市川小団次さんとの衝突。

当時玉造さんは文楽で様々な仕掛けに才能を発揮していたのですが、
この工夫を歌舞伎が借りてはどうかとの話しになった際、
小団次はこれを良しとせず玉造を思い切りバカにします

人形遣いをバカにされて玉造は怒ります。すぐさま文楽座に駆け込み、
自分を助けると思うて米十郎(小団次)と同じ昼ぬけの所作をやらしてくれと
涙ながらに懇願、座もこれを許し、次の興行で玉造初役の宙乗り、
そして同じ「昼ぬけ」の所作で文楽、歌舞伎ともに初日をあけます。

この興行は玉造の人形が米十郎以上と喝采を浴びました。
後年、玉造は多くの仕掛けに工夫をし、早変わりや宙乗りの基礎を築きます。
今の文楽で私たち観客を楽しませている多くの仕掛け、その芽生えには
玉造のこのような苦労と、人形遣いとしての基礎があったというお話です。

ところで「昼ぬけ」とは何でしょうか?調べてもまったくわからん(;´∀`) 
この文章を読むところ上から下りて早変わりする、みたいな感じでええのかな?
わからんわ(;・∀・)


文楽の研究 (岩波文庫)
三宅 周太郎
岩波書店
2005-08-19






出典:「文楽の研究」(三宅周太郎著)中の巻
文楽人形物語並びに終戦後の文楽その2-1、人形遣ひさまざま

P1200480

昭和3年6月21日、三宅周太郎先生が松竹の衣装部納戸(南区御堂筋周防町)へ
衣装わりの見学に行った時に見た人形遣いさん達の様子です。

【下記要約】

人形遣いが集まっている所に頭取の玉次郎さんが来ました。
手には東京興行の割当を書いた紙を持っています。
それを20人ほどの人形遣い一人ひとりに渡すと
一瞬場内がシンと静まりました。
全員が固唾を飲み、その紙を見つめ、役について考えていたからです。

それは真剣な静寂でしたが、やがて紙を見ながら皆が喋り始めます。

「これだけでは情けない(´・ω・`)」

そう言っているのが50歳の桐竹門造さん。
弁天座の忠臣蔵で師直を遣った淡路出身の人形遣いさんには
少々役不足だったようです。

「こないぎょうさん役をもろてからに(〃∇〃)」

そう言っているのは玉次郎さん。
頭取でも役の割当は座の外の主任がしはるので
ここへ来て紙を見るまで知らんかったみたいです。
頭をかいて(役が多すぎて大変やわあと)へこたれているフリをしても
包み隠すことのできない嬉しい気持ちがバレバレ状態。

「今度はわてが玉手御前だっせ(*´∀`*)」

頬を赤らめて筆者に云ふのが文五郎さん。
4月は栄三さんが遣うてはったその役が自分になったのがちょっと得意で嬉しそう。
文五郎さんこの時60歳。栄三さんと並ぶ人形遣いの大将がこの無邪気さとは(ノ∀`)

【要約ここまで】

******************

文五郎さんは亡き文雀師匠、簑助さん、人間国宝2人のお師匠様です。
当時のご様子はお写真で拝見するしかできませんが
うっとりするような遣い手さんやったことは容易に推察できます。
そんな方がこんなんやからなあ(ノ∀`)アチャー。

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人形の髪を整える文五郎さん
(出典:写真集なにわ今昔/毎日新聞社)

人形に対する愛情がひしひしと伝わって来るエエお写真です。
このお顔で割当の紙を見て頬を赤らめていやはったんですね。
なんかかわゆす(*´ω`*)


文楽の研究 (岩波文庫)
三宅 周太郎
岩波書店
2005-08-19





出典:「文楽の研究」(三宅周太郎著)中の巻
文楽人形物語並びに終戦後の文楽 
その2-6、文楽の或る話 

P2030143

【要約下記】

ウソかもしれんし、ここに書くのも憚られる事ですが
ちょっとぼかして曖昧に記そうと思います。

大隅太夫の奥方が、ある時ひょいと魔が差して
色の間違いを起こしはりました。

家の2階で奥方と間男が睦言をかわしていると
偶然、太夫がそれに気付いてしまいます。

元来が芸だけの方。
日常は無茶苦茶の限りを行ったと言われています。
無茶が過ぎて世の中に疎んじられたという話もあるほどです。

そんな太夫が奥方の間違いを知ってしもたらもう大変。

身体を震わせた太夫の形相はまるで鬼かヘビのごとく
すわ刃傷沙汰か!となりかけたその時、
ふと何かを思案し、結局何もせず事を納めます。

その後、お妻八郎兵衛の「鰻谷」(桜鍔恨鮫鞘)を語る事になった時
太夫は「よし」と頷きます。

いよいよ床に上がったその出来は素晴らしく、
異常な力と情感に圧倒された観客により、
改めて太夫の真価が見直されたほどでした。

太夫曰く

「俺の鰻谷はいいだろう。間男される八郎兵衛は俺でないと本当に語れないぜ」。

これを聞かされた近しい方々は、間男の一件を知るため、
思わずゾっとしてしまったとか。

大隅太夫は歴史に名を残した、天才とも呼べる人ですが
そんな「異常」な方が「異常」な出来事に遭遇したからこそ
初めて傑作「鰻谷」は完成したと言えましょう。

もしかしたら義太夫とはこういうもんなんかもしれません。
そこまで深刻に考えたくはないですが。

とまれ、これはあくまでも「伝説」です。
ウソかホンマかわからぬ話、よそで言うたらあきまへん。

*****

桜鍔恨鮫鞘(さくらつばうらみのさめざや)

鰻谷の段 切(床本)

桜鍔恨鮫鞘は安永2年(1773年)豊竹座上演、作者不詳
(出典:カラー文楽の魅力 吉永孝雄/三村幸一 昭和49年初版発行)
となっていますが、文楽の歴史(同書出典)では明和元年(1764年)
豊竹座退転となっています。

この辺の齟齬はどない解釈したらエエのでしょうか。ようわからんわ(;´∀`)


文楽の研究 (岩波文庫)
三宅 周太郎
岩波書店
2005-08-19





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