【出典】
「文楽の研究」(三宅周太郎著)中の巻 文楽人形物語並びに終戦後の文楽
その2-1、人形遣ひさまざま
P1210498

初代 吉田玉造(幼名・亀吉)は、幼い頃から文楽が好きで
父である人形遣いの徳蔵に「舞台に出たい」とせがんでいました。

初出勤は天宝十年(1839年)の竹田芝居(後の弁天座)です。
徳蔵の、子ども太夫による操り芝居出演に同行し、その際に
円顔(まるがお)やからという理由で「玉造」という名をもらいます。
当時11歳。後の名人、吉田玉造、文楽人生の始まりです。

とはいえ、玉造に役などつきません。足さえ持つ事もできず、
毎日泣きながら雑用にこき使われるばかりでした。

そんな時、一座の四国巡業で、初めて玉造に役がつきました。
「伽羅先代萩」の「鶴千代」です。
玉造は喜びますが、千松を遣う人形遣い(以下、千松君)は
「こんなチビが相手でやれるかい」と納得しません。

「出してほしい」と一生懸命頼む玉造に千松君は
「ほなオマエの昼飯よこせ、まかないの弁当少ないで足らんから」と
交換条件を出します。

仕方なく玉造は千松君に興行の間ずっと自分の昼飯を渡し
引き換えに鶴千代を遣いました。この時の空腹の辛さは役柄である
鶴千代以上やったと、後年、玉造は茶飲み話によう話したということです。

苦行のおかげか、この鶴千代は大好評を博しました。
次は父、徳蔵とともに文楽座へ出勤し、
綱太夫「関取二代鑑」秋津島内の段で伜力造を遣います。

この時、太夫は玉造の芸を認めてくれたのですが
徳蔵は「なってない」と言うひどくて怒ります。
挙げ句、その遣いがどないしても気に入らんと
まだ弱冠14歳の玉造を勘当してしまうのです。

こんな教育を受けて育ったせいか玉造はちょいと
頭に血が昇りやすい、かなり気の強い性格やったようです。

その性格ゆえに引き起こした喧嘩に関しては
初代吉田玉造さんのこと(二)でご紹介したいと思います。


文楽の研究 (岩波文庫)
三宅 周太郎
岩波書店
2005-08-19